--.--.-- --:--|スポンサー広告
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2017.03.31 15:40|賢治関連
宮沢賢治生誕100年記念に制作された「イーハトーブ幻想 KENJIの春」を今回初めて鑑賞しました。
ものすごく徹底して資料を集め、各方面に取材をして、妥協せずにこだわりぬいて作られたのだなと全編通して感動しっぱなしでした。
佐野史郎さん演じる賢治の淡々とした話し方も作品の世界へぐっと引き込む大きな要素ですね。
付属解説にも書かれていましたが、おそらくアニメーションのオフレコに慣れすぎた人が演じると賢治さんらしさが薄れていたことだろうと思います。
製作陣の宮沢賢治への情熱の本物さを深く感じました。

本当に素敵な作品だったのでたくさんの人に見てもらいたい!と思うものの、これは賢治についてある程度知っている人でないと「え?何?なんで急にこんな展開・・・」とよくわからずに追いつけなくなるような気もちょっぴりします。
どちらかというと愛好家向けの作品・・・でしょうか?



作品のぜんぶ。
時代背景に忠実でありながらも“幻想”が紛れ込んでいる不思議な背景美術
要所要所に聞こえる岩手の方言
賢治童話や詩の世界が絶妙に入り込んでくるストーリー展開
見慣れたセル画以外に、CGや色鉛筆タッチの絵をうまく組み合わせた世界観
どうしても絵では表現できないところはためらいなく文字というツールを使っていること

今すぐにぱっと思いつくのはこんなところですが、・・・書ききれないほど本当に全部良かった。

その中でもとりわけ印象深かったのがこの2つ。
ひとつは、春の陽気の中を生徒達を連れて歩いていた賢治が、とつぜん何かを感じて手帳をとりだし猛烈な勢いでスケッチを始めた!!
・・・が!「しくじったか・・・」
と言って、はたとペンの動きが止まった場面。

あの、もう少しでこれまで体験したことのない、とんでもなく素晴らしい感覚を掴むことができそうという興奮の瞬間!
それをとらえるために全身の神経を研ぎ澄ませ、向かい合う、あまりにも長く感じるけれども現実には刹那の時間。
そして―、
ああ!もう少しで自分の中にとりこんで具体的な言葉や音楽やイメージとして外へ再発信することができそうというところまで接近していたのに!
逃してしまった・・・

という感覚。これをあの数秒の映像と「しくじったか」という一言で表現しているのがとても素晴らしかったです。

もうひとつは、
クラシック音楽「アヴェ・マリア」の節に賢治の詩をのせたものが作品中で流れていたことです。
『永訣の朝』が「G線上のアリア」の節に始めから終わりまでぴったりと当てはまると、以前の講演で聞いたことがあるのを思い出しました。
これはそれになぞらえた演出だったのかどうかはわかりませんが、ただ詩の朗読を流すのではなくBGMのようにさりげなく、けれどもちゃんと伝わるように作品に溶け込ませているのが良かったです。




ところで、、、
この「イーハトーブ幻想」については、だいぶ前からこういう作品があるとは知っていました。
しかし、「いつか見よう、いつかね。」と先延ばしにしてしまっていたのを友人が貸してくれたことがきっかけでようやく見ることになりました。
本当に見ようと思えば、すぐにレンタルするなり購入するなりもちろんできたわけですが、なんだかんだ言い訳というか、「これを買うより我慢して節約して、こっちが欲しいな」など目先の楽しみに負けて延び延びに。
けれどもビデオを見終わってまず感じたのが、「目先の楽しみに目がくらんでいたせいで、わたしは何年もこんなに素敵な作品に出会う機会を逃していたのか!」という衝撃でした。

賢治さんの
「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。」

は、全くその通りで、
しみじみ「自分にとって本当に価値のあるもの。実になるもの。」を見極めていかないといけないと感じました。
とてもシンプルなことだけれど、これがなかなかむずかしい・・・
このことをずっと意識して日々の生活を送るのは簡単ではないけれど、ふと立ち止まって省みる時間をなくさないようにしたいです。

スポンサーサイト
2017.03.28 13:29|未分類
変わりたいと思う。成長したいと思う。学びたいと思う。
そういう気持ちが常に心の中にある一方で・・・
それに何の意味がある?
そもそも『変わる』なんてことは本当の意味で可能なことなのだろうか?
結局いつも変わるのは一瞬だけ、そのうち元通りじゃないか?

この世界を見ていて、人間社会を見ていて、そして自分自身を見ていて、いつも感じずにはいられないこと。

そんなことを考えていると、これまで読んだり聞いたりしてきた言葉がたくさんたくさんあふれてきた。
作品も言葉の関連順序もてんでバラバラだけど、思い出された言葉たちをとにかく書いてみる。



成長なんて
しなくたっていいじゃない

本当にそうですね。でも、それが魂の本質なんですから仕方がないのです。春になったら種から芽が出るように、それが光に向かって伸びていくように、魂は成長したがっているのです

<梨木香歩『西の魔女が死んだ』>




・・・(略)・・・けれども一体どうだろう、小鳥が啼かないでいられず魚が泳がないでいられないように人はどういうことがしないでいられないだろう。人が何としてもそうしないでいられないことは一体どういう事だろう。考えてごらん。

人が歩くことよりも言うことよりももっとしないでいられないのはいいことです。

そうだ。私がそう言おうと思っていた。すべて人は善いこと、正しいことをこのむ。善と正義とのためならば命を棄てる人も多い。おまえたちはいままでにそう云う人たちの話を沢山きいて来た。決してこれを忘れてはいけない。人の正義を愛することは丁度鳥のうたわないでいられないと同じだ。セララバアド。お前は何か言いたいように見える。云ってごらん。

人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います。

<宮沢賢治『学者アラムハラドの見た着物』>




繰り返すのだ。勃興、成長、成熟、爛熟、腐敗、解体。これは、どうしようもないのだろうか。


豊かな退廃
危険な豊かさへの懸念


ええ、いつまでも繰り返すでしょう。でもその度に、新しい何かが生まれる。それがまた滅びるにしても、少しずつ少しずつ、その型も変化してゆくでしょう。全く同じように見えていてもその中で何かが消え去り何かが生まれている。
そうでなければなぜ繰り返すのでしょう。
繰り返す余地があるからです。人は過ちを繰り返す。繰り返すことで何度も何度も学ばねばならない。
人が繰り返さなくなったとき、それは全ての終焉です。

それで君はそれになんと答えたのかね。

僕は、何も学びたいとは思わない、と。

<梨木香歩『村田エフェンディ滞土録』>



それは確かにそうかもしれない。変化がなくなったとき、繰り返しがなくなった時、それは確かに終わりを意味するかもしれない。
けれど、終わることは 悪 なのだろうか?
繰り返し続けることが善なのか??
終わったからといって何だというんだろう?何がダメなんだろう?私にはそれがわからない。





そなた達人間はあきることなく同じ道を歩みつづける

みな自分だけは誤ちをしないと信じながら
業が業を生み 悲しみが悲しみを作る輪から脱け出せない

生きることは変わることだ 
王蟲も粘菌も草木も人間も変わっていくだろう
腐海も共に生きるだろう
だがおまえは変われない 組み込まれた予定があるだけだ
死を否定しているから・・・・

苦しみや悲劇やおろかさは清浄な世界でもなくなりはしない
それは人間の一部だから・・・・・
だからこそ苦界にあっても喜びやかがやきもまたあるのに

精神の偉大さは 苦悩の深さによって決まるんです

王蟲のいたわりと友愛は 虚無の深淵から生まれた

<宮崎駿『風の谷のナウシカ』第七巻>




ナウシカの言いたいことはわかるけど、だからと言ってナウシカ個人の意見で世界再建のための知と技を失った人類・・・って思うともやもやしなくもない
清浄な世界でもたしかに苦しみや悲劇はなくならないだろう
けれど、同じ苦しみや悲劇があるならせめて清浄な世界の方がましじゃないか?なんて思ってしまう私は愚かなのか。

2017.02.14 00:40|未分類
多くは書かないけれど(あまりにも考えがまとまらなさすぎて)、アメリカの大統領が変わってからのあの国の情勢をニュースやツイッターで目にするたびに
「どうしてこういう流れになってしまうんだろう」、「結局歴史は繰り返されるのか」と悲しくつらい気持ちになる一方で、「支持する人がいるのもわからないではない」とい感じる自分がいるのも事実。
そして最後は「当事者でない私に良いか悪いかなんてそもそも判断する資格があるのか」ともう一人の自分が心の中でつぶやく。
私にはどうしたらいいのかわからない。

わからないけれど、
とにかく今のそんな情勢を見ててふっと思い出されるのが梨木香歩著『僕は、そして僕たちはどう生きるか』の冒頭の言葉。


群れが大きく激しく動く

その一瞬前にも

自分を保っているために

2016.12.21 00:03|未分類
梨木香歩著『村田エフェンディ滞土録』の中にこんな言葉が出てきた。

『私は人間だ。およそ人間に関わることで、私に無縁なことは一つもない。』

古代ローマの劇作家の作品に出てくる言葉だ―、と説明されていた。

今までもこういう意味合いの言葉はいろんな表現で出会ってきたけれど、なぜかこれを読んだ今日とても心に響いた。
今朝のニュースで世界各地でテロと思われる事件が多発していると聞いたからかもしれない。
私はキリスト教徒でもイスラム教徒でもなければ、難民でもないし、どこか特定の国や集団に対して生死をかけてまでの憎しみを持っていることもない。
そういう意味では遠い世界の『縁のない話』だ。
けれど、被害に遭った人や家族のことを想像してしまう。
また、加害者のそこに至った経緯や心情―そうするしかない、選択の余地はない、としか考えられないほど追い詰められた哀れさなども考えてしまう。

私は今たまたま日本に生まれて平和にのんびり生きているけれど、もし人生が違うものであったならあの被害者または加害者は自分だったかもしれない・・・と思わずにはいられない。
加害者の情状酌量的な意味ではないし、やったことの卑劣さを認めることはできないけれども、もし自分が彼らとおなじ境遇だったら??それでも正義や博愛心をずっと持ち続けていられるか?と想像すると私にはとても自信がない。
(今現在、正義や博愛心に溢れてるかというとまったくそうではないんですけどね)
彼らは私だったかもしれないし、反対に彼らが私とおなじ境遇であったならこのような事件は起こさなかったかもしれない。
それがなんだか無性に哀しく憐れに感じた。

そう、「彼らは私だったかもしれない」と想像するととても他人事の『縁のない話』ではなくて
およそ人間に関わることで、私に無縁なことは一つもない
・・・という言葉が深く響いたのだろう。


みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう、
けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。
それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。
そして勝負がつかないだろう。

<銀河鉄道の夜・初期形第三次稿より>



そんなことを考えていたら、このブルカニロ博士の言葉も思い出されてしかたなかった。


2016.11.29 20:37|リンク
更新情報/ 2016.11.29.リンク先追加
(※上に表示されているほど新しく追加したサイトです)

続きを読む >>

04 | 2017/05 | 06
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
ブログ紹介

Author:すずり
宮沢賢治作品について調べたり感じたことを中心に、日々思うこと、出会った素敵な言葉などを気の向くままに書いています

最新記事

最新コメント

月別アーカイブ

カテゴリ

 

検索フォーム

RSSリンクの表示

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。