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2017.02.14 00:40|未分類
多くは書かないけれど(あまりにも考えがまとまらなさすぎて)、アメリカの大統領が変わってからのあの国の情勢をニュースやツイッターで目にするたびに
「どうしてこういう流れになってしまうんだろう」、「結局歴史は繰り返されるのか」と悲しくつらい気持ちになる一方で、「支持する人がいるのもわからないではない」とい感じる自分がいるのも事実。
そして最後は「当事者でない私に良いか悪いかなんてそもそも判断する資格があるのか」ともう一人の自分が心の中でつぶやく。
私にはどうしたらいいのかわからない。

わからないけれど、
とにかく今のそんな情勢を見ててふっと思い出されるのが梨木香歩著『僕は、そして僕たちはどう生きるか』の冒頭の言葉。


群れが大きく激しく動く

その一瞬前にも

自分を保っているために

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2016.12.21 00:03|未分類
梨木香歩著『村田エフェンディ滞土録』の中にこんな言葉が出てきた。

『私は人間だ。およそ人間に関わることで、私に無縁なことは一つもない。』

古代ローマの劇作家の作品に出てくる言葉だ―、と説明されていた。

今までもこういう意味合いの言葉はいろんな表現で出会ってきたけれど、なぜかこれを読んだ今日とても心に響いた。
今朝のニュースで世界各地でテロと思われる事件が多発していると聞いたからかもしれない。
私はキリスト教徒でもイスラム教徒でもなければ、難民でもないし、どこか特定の国や集団に対して生死をかけてまでの憎しみを持っていることもない。
そういう意味では遠い世界の『縁のない話』だ。
けれど、被害に遭った人や家族のことを想像してしまう。
また、加害者のそこに至った経緯や心情―そうするしかない、選択の余地はない、としか考えられないほど追い詰められた哀れさなども考えてしまう。

私は今たまたま日本に生まれて平和にのんびり生きているけれど、もし人生が違うものであったならあの被害者または加害者は自分だったかもしれない・・・と思わずにはいられない。
加害者の情状酌量的な意味ではないし、やったことの卑劣さを認めることはできないけれども、もし自分が彼らとおなじ境遇だったら??それでも正義や博愛心をずっと持ち続けていられるか?と想像すると私にはとても自信がない。
(今現在、正義や博愛心に溢れてるかというとまったくそうではないんですけどね)
彼らは私だったかもしれないし、反対に彼らが私とおなじ境遇であったならこのような事件は起こさなかったかもしれない。
それがなんだか無性に哀しく憐れに感じた。

そう、「彼らは私だったかもしれない」と想像するととても他人事の『縁のない話』ではなくて
およそ人間に関わることで、私に無縁なことは一つもない
・・・という言葉が深く響いたのだろう。


みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう、
けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。
それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。
そして勝負がつかないだろう。

<銀河鉄道の夜・初期形第三次稿より>



そんなことを考えていたら、このブルカニロ博士の言葉も思い出されてしかたなかった。


2016.11.29 20:37|リンク
更新情報/ 2016.11.29.リンク先追加
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2016.02.12 21:56|賢治関連
  おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。

  ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸(さいわい)になるなら、どんなことでもする。
  けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。


銀河鉄道の旅の途中、突然カムパネルラがこんなことを話しはじめる。

私はずっと、現世にいる母親のことを言っているのだと思っていた。
親よりも先に死んで辛い思いをさせてしまう親不孝をゆるしてくれるだろうか?と。
けれど、カムパネルラのお母さんはずっと昔に亡くなっていて先に天上の世界に行っている、そしてカムパネルラが来るのを待ってくれていると解釈している人をネットで見たことがあった。
なんの疑いもなくカムパネルラのお母さんは生きているものだと思っていたので、そういう視点で再読してみると確かに物語の終盤でカムパネルラが

  ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集まってるねえ。
  あすこがほんとうの天上なんだ。
  あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。


と汽車の窓から遠くを指差して叫んでいるのも繋がるように見えてくる。

けれど・・・あれ?
別の場面ではジョバンニが「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」と言っていたので、ずっと昔に亡くなっている人に対してこの言葉は無理があるような気もする。
それよりも、あれはジョバンニの母親が病気や気苦労をしていることと比較して、カムパネルラのお母さんは平穏に生活している・・・と読み取るのが自然ではないだろうか。
よって改めて考えた結果、やはりカムパネルラの母親は現世で生きているという解釈に落ち着くことになった。

では、汽車の窓からカムパネルラは一体誰を見たのだろう?

はじめて私がこの物語を読んだ時、これは母親と離ればなれになってしまう心細さ・もう一度会いたいと恋しく思うカムパネルラの願望が見せた幻影なのだと思っていた。
幻影ならば、同じ窓から外を眺めていたのに
そこはぼんやり白くけむっているばかりどうしてもカムパネルラが云ったように思われませんでした
とジョバンニには“野原”や“お母さん”が見えなかったのも不思議ではない。


*  

・・・と、しばらくはそのように考えていたのだが、その後に『ひかりの素足』を読み『前のお母さん』という考え方があることを知った。
『前の』というのは『生前/前世での』という意味で、輪廻転生思想のある仏教では前世では親子だったとしても、来世ではそのような繋がりのない関係で生まれることがあるのであえて『前世では母親だった人』とわかるように表現しているという。
そんな『前のお母さん』という考え方を知ったちょうどその頃・・・

偶然にも、私はまったく関係のないマンガの中で『地蔵和讃(じぞうわさん)』というものに出会った。
地蔵和讃とは―、
親より先に死んでしまった子供たちが賽(さい)の河原で親不孝の罪をあがなうために石を積むのだけれど、もう少しで完成ということころでいつも鬼がやってきて壊してしまい終わりのない苦しみに遭う物語・・・それが歌になったもの。
鬼に虐げられている幼子たちの魂を救いにやってくるのが、『地蔵和讃』の名にあるとおり地蔵菩薩・・・お地蔵さまだ。

お地蔵さまは幼子たちが苦しみから抜け出せるように優しく語りかけるのだが、その中に『前のお母さん』にまつわる言葉が出てくる。

何を嘆くかみどりごよ
汝ら命短くて 冥土の旅に来るなり
娑婆と冥土はほど遠し いつまで親を慕うとぞ
娑婆の親には会えぬとぞ

今日より後は我をこそ 冥土の親とも思うべし


現世とこちらの世界はとても遠く離れているのだから、どんなに生前の親を想っても会えることはない。
そうやって親を恋しがり執着しているうちはずっと救われない。
だから、今日からは私(地蔵菩薩)のことを親代わりと思いなさい。

と導いてくれているのだ。

カムパネルラが見たものも同じだったのではないだろうか?
カムパネルラが汽車の窓から見た『お母さん』は、生前の母親の幻影ではなく、仏教の世界でいうところのお地蔵さまのような―天上世界で親代わりとなって導いてくれる存在―だったのではないか。




その『お地蔵様のような存在』が、ジョバンニの言う『ほんとうのほんとうの神さま』と同一人物かどうかはまだ私の中で答えはでていない。
なぜならカムパネルラが見た『お母さん』は“彼にとってだけの神様”で、だからジョバンニには見えなかったという解釈もできるからだ。

うーん・・・わからない(笑)
わからないことをいろいろと思い巡らして想像するのが楽しいのだけれど、
どんな解釈だろうと
どんな道をジョバンニとカムパネルラが歩もうとも
最後は二人が同じ場所へたどり着いてずっと一緒に歩いて行けますように。


2016.02.06 22:48|賢治関連
   ああごらん、あすこにプレシオスが見える。
   おまえはあのプレシオスの鎖を解かなければならない。




これは銀河鉄道の夜・初期形第三次稿に登場するブルカニロ博士の言葉。

プレシオスとは、“すばる”の名前で知られる星の集まり『プレアデス』から賢治さんがもじって作った言葉だろうと言われている。
つまり、プレシオスの鎖は→プレアデスの鎖、というわけだ。
この『プレアデスの鎖』のことは旧約聖書ヨブ記・第38章31‐33節に記述されている。

   あなたはプレアデスの鎖を結ぶことができるか。
   オリオンの綱を解くことができるか。
   あなたは十二宮をその時にしたがって引き出すことができるか。
   北斗とその子星を導くことができるか。
   あなたは天の法則を知っているか、そのおきてを地に施すことができるか。


これは創造主である神が人間のヨブに対して言った言葉で、この先にまだまだたくさんの「おまえにはあれができるか、これができるか」話が続いてゆく。
まだ続くの?というほど書き連ねられているのは、万能の神は何でもできるが、人間はこの中のたった一つもできないだろうと思い知らせているのだという。

プレアデスの鎖を結ぶことができるは神さまだけ。

それなのにブルカニロ博士は人間の子どものジョバンニに、プレアデスの鎖・・・『銀河鉄道の夜』の世界で言うところのプレシオスの鎖・・・を結ぶどころか、神さまがせっかく結んだものを反対に「解け」と言うのだ。
それはつまり、既存の神さまの結んだ鎖・・・言い換えれば既存の宗教・真理・固定概念・・・を解いてそこから抜け出せということだろうと思う。
(しかしそれはキリスト教を名指しして否定しているわけではない。
プレアデスの鎖という言葉ではなくあえて言葉を変えて『プレシオスの鎖』としているのはそのためだと思われるし、また、列車の乗客たちから沸き起こった声が『ハレルヤ』からわざと『ハルレヤ』に書き直されているのも同じ理由と考えられる)

既存の神さまというのは、
「みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう」
と博士が言うように、国や地域・民族・文化によって全く違うものが存在している。
それはそれで良いのだと思う。
自分(たち)の神さまを信じていれば迷いや苦しみがあっても、それを拠り所に希望や救いとなってその人(たち)にとっての幸福を得られるのだから。

けれど、『あらゆるひとのいちばんの幸福』を、『みんなのためにほんとうのほんとうの幸福を』さがし求める決心をしたジョバンニに必要なのは、一部の人にだけ受け入れられる神さまではなく、

誰にでも・どこでも・いつの時代にも通用する神さま

でなければならない。

ジョバンニの言葉を借りるならば『たったひとりのほんとうのほんとうの神さま』だ。
あるいは、この世界のどこにいても普遍的に変わらない秩序・法則、疑う余地のない絶対的な真実・・・いえ、真理と言い換えることができるかもしれない。
それは客観的な実験や証明によって得られる真偽で成り立っている科学や数学の世界に似ていると思う。

『もしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考(かんがえ)とうその考とを分けてしまえばその実験の方法さえきまればもう信仰も科学とおなじようになる。』

まさにブルカニロ博士の言葉そのもののように思えてならない。
宗教であろうと、科学であろうと、この世界の『真実』を求めるという同じ目的に端を発して進んでいる以上、アプローチが違っても最後にたどり着く場所は同じではないだろうかという事は私も常々感じていることだ。

この最後にたどり着く同じ場所こそ、ジョバンニとカムパネルラがいつまでもいっしょに行ける世界にほかならないと感じている。


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Author:すずり
宮沢賢治作品について調べたり感じたことを中心に、日々思うこと、出会った素敵な言葉などを気の向くままに書いています

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