2017.09.21 18:36|賢治関連
今日は賢治さんの命日。
だからといって、特に大した記事は書けそうにないので資料用に撮ってきた写真をいくつか載せてみます。
写真は蜘蛛です、苦手な方はご注意を。

『蜘蛛となめくじと狸』の中に登場する「赤い手長の蜘蛛」はどの種類のクモがモデルになっているのだろうか?と、以前に一度書いたことがあります。(今は削除してありません)
いろいろと調べた結果「ジョロウグモのオスではないか」と推測したのですが、その時に初めてオスが赤い姿をしているということを知りました。それまではオス・メス共に同じ姿と思い込んでいたんですよね。
それ以来、私はクモの巣を見かけるとオスはいないかな?赤い手長の蜘蛛はどこ?と意識して探すようになりました。ネットで検索すればいくらでも画像は出てくるのだけど、そこはやっぱり実物を自分の目で見てみたいもの。
さて・・・そうやって意識するようになると、いるんですよ、見つかるんです。今までだってきっと近くにいたはずなのに、意識する・しないだけで見えたり見えなかったりするのだから本当に不思議です。
ジョロウグモのオスはまさにイメージにぴったりの「赤い手長の蜘蛛」でした。

ただ、いつもタイミング悪くカメラを持っていなくて写真におさめることができきない!いつか必ず撮りたい!と思い続けて数年・・・。今回はちょうど秋の産卵時期直前のため、オスとメスをひとつの巣で見つけるチャンスが多かったのでとても良かったです。




「赤いてなあがのくぅも、
 天のちかくをはいまわり、
 スルスル光のいとをはき、
 きぃらりきぃらり巣をかける。」



akaitenaganokumo.jpg
メスと比べると体は小さいけれど、その分「てなが」に見えます。

soranotikakuwohaimawari.jpg
上の小さいのがオス、下の大きいのがメス。
頭上高いところを見上げるように撮ったのでものすごく逆光ですが、いかにも「天のちかくをはいまわり」という感じでお気に入りです♪

amizasiki.jpg
クモの巣。めくらのかげろうの言葉を借りるなら「網ざしき」ですね。
画面上の方にぼんやりと巣の主がいます。


2017.09.13 17:30|未分類
「自分は正直者なんです」「素直な性格なの」「自分の気落ちに嘘をつけないタイプ」と自分からアピールしてくる人は要注意だ。
これはもちろん私の独断と偏見だが、これまでの経験上そう感じて疑わない。

昔と違って自分の長所をはっきりと言葉にして伝えることが珍しくない今では、本当に正直・素直である人がそのことを伝えたい時にも同じ言葉を使わざるをえなくて、その見分けがとても難しいこともあるだろうとは思う。
ただこれまでのところ、実際に接していくうちに「ああ、この人は本当に正直で誠実な人だな」と私が感じた人たちの中で自らその言葉を口にした人はいない。
おそらくそのような人達は、わざわざ主張などしなくても普段からの言動で示すことができるという分別も持っているのだと思う。

なにより、自分からアピールしてくる人というのは「私は相手の気持ちに配慮したり、周りの空気を読めないし、そもそもそんなことを努力する気はないですよ。」と暗に伝えてきていることが多い。
簡潔に言うと、「私はわがままです」ということだ。
それが周囲から好感を持たれないマイナスイメージの要素だということを、誰よりも自覚しているのかもしれない。
だからこそ「正直」「素直」という耳触りの良い言葉に置き換え、先回りして予防線を張り、アピールしてくる。

こういうことを書くと、自分の正直な気持ちを押し殺してでも、和を保つために周りに合わせて流される方が良いのか?という話がでてくる。
もちろん、そうじゃないでしょ。
私がここで言いたいのは、自分の気持ちを隠してでも調和を保つか?自分らしさを大事にするためには気持ちを好きなだけ開けっぴろげにしてもいいか?という次元の「正直」「素直」ではないということ。

正直さ、素直さ、というのは、
例えば友達と喧嘩をしてしまった。けれど、あとになって悪かったな・仲直りしたいな・謝りたいなと感じた。そのような時に、その気持ちを捻じ曲げて「向こうから謝ってくるまで許さない」と頑固なあまのじゃくになることなく、感じた通りの気持ちをそのまま相手に伝えることのできることを言うのではないのかしら。
「私はどうもあの人のことは苦手だ、嫌いだ」という気持ちを隠す配慮なくあからさまに表に出したりすることを「正直」「素直」ということとは全く違うのではないのかしら。

正直さ、素直さというのは、先に少し書いてしまったけれど「誠実さ」が伴ってこその性質ではないだろうか。
それをただ「隠さず表にあらわす」ことを、イコール「正直・素直さ」として言葉を利用するのはとても卑怯だと思う。

何より卑怯なのは、自分は隠す配慮なくズケズケと発言しても「正直だから。嘘が付けないの。」と言い訳をするくせに、他人が同じようなことを言うと「どうしてそんなことをわざわざ言うの?それを聞いて傷つく人だっているかもしれないってどうして思わないんだろう?」と100%返してくることだ。(これも私の経験上の話であって、一般論として言ってるのではありません)
自分はいいけれど、他人が同じことをするのは1ミリも許さないのだ。

どうしてこんな話を書き始めたかというと、「自分にとってこういうことをする/言う人はNGだわ。仲良くできないし、あまりお付き合いしたくないな。」と考えていた中で特に最近の出来事も相まって強く思い出されたからだ。
要するにただの愚痴だとも言う。
2017.09.08 17:41|未分類
以前から気になっていた『暗号のポラリス』という本を読み始めている。
主人公は難読症の男の子でいろいろ端折って書いてしまえば、文字が読めないということらしい。

これはたまたまのタイミングなのだけれど、前回の記事で「自分はどうも目で見たものは覚えが早いらしい。特に形のない抽象的なものは文字という形で目にするとより記憶に強く残るらしい」というようなことを書いたばかりだったので

想像しよう。
文章のない世界。
じゃなくて、文章を理解できない?
でも、会話はできる。
想像しよう。
それってどんな感じ?


と作中に出てきたことで、文字ってなんだろう?と考え始めた。



そもそも、今回に限らず私は文字って不思議だなとよく考える。
正確に言うと、文字を文字として判別する脳のしくみを不思議だと感じる。
先に書いた本とは別の話だが、文字を読んだり、覚えたり、書いたり・・・というのが苦手だが、絵やマーク、記号は得意という人の話をテレビで見たことがある。
その人にとって・・・というより脳にとって、文字と記号の境界って何なのだろう?
私は文字を「文字として」ではなく記号のような扱いで記憶していることがあるのでそこがとても気になった。
(もちろん、それは私がそう感じているだけで脳は全くそんな風には扱わずただひたすらに「文字として」情報処理しているのかもしれない)

例えば、象形文字というものがある。
漢字の成り立ちの中で、ものの形をかいた絵が元となって漢字へ変化したものだ。
その過程があきらかに「絵」と感じるものからだんだん簡略化・進化していき、最終的に見慣れた漢字になって終わる図解で示されることがあるが、そこで私は思う。
脳はこの図のどこまでを絵としてとらえ、どこからを文字としてとらえているのか?
例えば難読症の人はどこかの段階で突然「あ、これは文字だ。難しい。覚えにくい」ということがあるのだろうか?
この変化の流れに沿ってすべてを「絵」あるいは「記号」としてとらえることはできないのだろうか?

同じように全く見たことのない未知の文字を目にした時、人間の脳は「それ」を何としてとらえるのだろうか?
ただの不可思議な「図」だろうか?
「どうもこれは文字のようだぞ」と気づいた瞬間、脳の情報処理のしかたに何か変化が起きるのだろうか?

文字をアートとして作品にするということも人間はする。
「脳にとって」それは一体何なのだろう?
本当に文字って不思議だ。
2017.09.02 18:33|未分類
人を覚えるということに、私は子どもの頃から苦手意識を持っていた。
けれども、人とたくさん接する仕事を経験するようになってから「あれ、自分で思っていたほど苦手じゃないかも?」と次第に苦手意識が薄れていったのだが、最近になって「やっぱり苦手だ。覚えら得ない(><;) 特に、顔はすぐに覚えても名前がなかなか記憶に残らず顔と一致しない!」という出来事が続き悩んだ。

記憶の仕方は人それぞれ違うのだろうか?ということを私は普段からわりと考えるのだが、もしそうなら私以外の人は一体どういうプロセスで人の名前や顔を覚えているのだろう?
頭の中を覗いてみたいものだ。

よくよく考えてみたところ、私の場合はおそらく目で見たものを覚えることは早いようだと思い至った。
相手の顔は『目で見る』から早く覚えられる。
けれど名前はそうじゃないから覚えにくい・・・??いやいや、ちょっと待って。過去を振り返ると必ずしもそうではなかった。
実は名前を早く覚えられることもあったのだ。。

覚えられる時と、覚えられない時があるのはなぜ?
その疑問のたどり着いた答えは、結局のところ『目で見たものかどうか』ということだった。

すぐに名前と顔を一致させて記憶できた場合というのは、名前を『文字で見ていた』時。
一方で、なかなか覚えられず苦戦する場合というのは「私は○○といいます」だとか「この人は○○さんって言うの」と言葉で紹介された時だったのだ。
それに気づいてみると、小・中学生の時はクラスメイト全員の名前を覚えられたのに、高校に入ってからは仲の良い数人しか名前を覚えられなかったことに納得がいった。
その違いは名札があったか、なかったか、だった。
つまり、名前を文字として見る機会が多かったか、そうでなかったか。



おそらく私は名前に限らず、「言葉」というものを一度「文字」として把握しないと記憶の定着にとても時間がかかるのだと思う。
「音」として聞いただけの「言葉」はどこか掴みどころがなくフワフワしたイメージだ。
だからといって、言葉でない音・・・風の音や、車の音、音楽、人の声・・・などはまた別で、それに関しての記憶は強い方だと自分では感じている。
同じ耳から入ってくる音でも「言葉」か「それ以外か」で脳の反応する場所が違うのかしら?



人を覚える事への苦手意識がよみがえっていたところに、ちょうど今読んでいる本の登場人物が瞬間記憶の能力を持っていて
「その記憶力は視覚からきているらしい」
「特に記憶が鮮明になったのは、文字を覚えてからだった」

という部分を読んだことで記憶に関しての連想が広がってこんな記事を書いた。



余談だが、
文字だけの本・・・小説などを読んでいる時、頭の中にその描写が映像など視覚的なイメージで浮かぶ人とそうでない人がいる、と聞いたことがある。
自分は前者でそれが当たり前だと思っていたので、後者の人は小説を読んで一体何が楽しいのだろうか?と考えてしまったことがあるが、それも脳の使い方が違うというか、プロセスが違うというか、そういうことなのだろう。
その時、その人の頭の中にはどんな世界が出来ているのかとても興味深い。

続きを読む >>

2017.08.03 16:12|未分類
梨木香歩著『僕は、そして僕たちはどう生きるか』を読んでからずっと気になっていたこの作品の元とも言える 吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』を読み始めた。
堅苦しい感じの内容かと勝手に想像して覚悟して読み始めたけれど、中学生くらいに向けた作品らしくとても読みやすい。
まだ半分も読んでないけれど、読んでいて一番感じたのは「宮澤賢治っぽい」ということだ。
登場人物や時代背景、もちろんストーリーも全く違うのに、どこか『銀河鉄道の夜』を読んでいるような気分になってくる。

と、こういう流れになるといつも思うことなんだけれども、
この世界には昔から現在まで「正しいことってなんだろう。幸せってなんだろう。」だとか、「周りに流されて何も考えずに愚かなことをするな。自分の確固たる信念を持て。」というようなことを考えて伝えた人達がどの時代にもいる・・・そう、宮沢賢治だけではない。
それでいながら、宮澤賢治の言葉ほど私の中に響いてくるものはないのは何なんだろう?
彼は他の「そういう人たち」とは何が違うんだろうか?と不思議でならない。

童話という形をとっていて読みやすいから?わかりやすから?
彼自身が実践しているから?使う言葉が美しいから?独特だから?
どれも当てはまるようでいて、「いや、それだけでは説明できない」という感覚がある。

いろいろ考えてみたところ、宮澤賢治という人が何よりも『科学者』であり『(文学者でなく)芸術家』であることが大きいのかもしれないということに至った。(とりあえず今のところは)
「宮沢賢治という人は童話作家ではない。何よりも『科学者』なんです。」というようなことを弟の清六さんがおっしゃっていたことに繋がるように思う。


高橋秀松あて 葉書より抜粋

私が一つの岩石をカチツと割りますと
初めこの連中が瓦斯(ガス)だつた時分に見た空間が
紺碧に変つて光つていることに愕いて叫ぶこともできず
きらきらと輝いてゐる黒雲母を見ます


この感覚がたまらなく好き。