2017.11.18 22:40|未分類
前回に引き続き読書中の『アルケミスト』。
同作品の出版された年についての項目を読んで思った。どうしてもっと早く読まなかったのかと。
『アルケミスト』という本があることはなんとなく知っていた、本屋で陳列されていたり、ネットで紹介されているのを見かけたことがあったからだ。
けれど、今まで読んでこなかった。

過去の記事で書いたことがあるが、宮澤賢治にしてもそうだった。
賢治作品は小学校の国語の授業で扱われたこともあるし、その時になんて素敵な表現をする人なんだろうと印象深かったという出会いがありながら、その魅力に引き込まれていったのは成人してからでそれまで彼の作品はまったく読んでこなかった。
その魅力に引き込まれた時の衝撃は、どうしてこんなに良い作品を今まで存在を知りながら見過ごしていたのかという衝撃でもあった。

しかし、「これが時機だったんだ。これらの作品に惹かれるだけのものが自分の中で大きくなるにはこの時間が必要だったということだ。」とも感じている。



同じ本を繰り返し読むのと根っこは同じでね、そうすることでしか見えない側面が確かにあるんだ。
よそで背負い込んだ経験なんかがさ、見知った場所をまるで別物に変える。
僕はそれを魂の迂回路って呼んでる。

―『暗号のポラリス』中山智幸著より抜粋―



全ての物事のめぐり合わせの絶妙さに心底驚いてしまう。
この感覚を味わうのは久しぶりだ。
一歩立ち止まって、あらためて言葉で『そういうこと』を気づかせて知らせてくれたこの本との出会いそのものが、前にも同じことを書いたが『運命』的だと思わずにはいられない。
実際私は今、ここ数ヶ月迷い続けてきたことにそろそろ決断を下さないといけないなという時期が近づいてきてることを知っていて、しかしまだ迷っているという状態にいる。
『アルケミスト』という本は私にとって啓示だと言えるかもしれない。
それは答えを示してはくれないが、進むべき道とはこういうものだと教えてくれる。
2017.11.15 17:54|未分類
パウロ・コエーリョ著『アルケミスト』を読み始めた。
運命とはなんだろうかと考えてしまう物語で、自分に置き換えてみると深みにはまりそうだ。
自分の意思や行動とは関係なく、「そういう流れ」に進むように周りが寄ってくる・・・と私はよく表現するのだが、そういことがたびたび自身に起こるタイプなので改めてこれまでの自分を振り返っては「あの時はどうだっただろう。あれも『運命』の流れの一つと考えてみるとどうだろう?」と考えてみるととても面白い。
(前回の記事でちょうど運命について書いたばかりのこの『今』というタイミングで、そのことについてさらに思索に入り込ませる本に出会ったこと。もう、それ自体が『運命』みたいなものでなんとも言えない気分である。)

例えばもうずいぶん昔のことになるが、進学に関して私は自分の希望が親の希望と合致せず妥協案の道へ進んだ。
そりゃ「どうしても進みたい道だったのなら親に反対されようが、金銭的に苦しくなろうが、家を出て自力で進めば良かったんだ」と言うのは易しいけれど、現実的にはそういう道は当時の私にとっては「頑張りさえすればどうにかなる道」ですらなかったのだ。
そこで、親もまぁ妥協し、私もそこなら行ってもいいかという学校へ進み・・・

このことは、私にとっては『運命』をあきらめた道という位置づけであった。

しかし・・・今回『アルケミスト』を読んでいてつくづく考えてしまった。
自分には諦めた道に見えていたが、結果進んだ道こそが実は「この世界が望んだ運命」だったんだろうか、って。
そういう視点でこの件に関してより深く省みてみると、私が希望していた道というのは、だんだん世の中や社会というものをひしひしと感じて現実的に就職に近い学校へ進もうという考えの、昔からの夢とは異なる道だったといえばそうかもしれない。
つまり自分でも気づかなかった「あるべき道」に戻すための『運命』だったと見ることもできる。

さらに他の出来事についても考えてみると、良い物事との出会いはもちろんだが、病気であったり、友人との絶交であったり、マイナスにしか思えなかった過去の出来事のすべてをもが作中の言葉で言うならば

彼の運命の道すじにあるステップにすぎなかった

という風に思えてくる。
(つまりは考え方次第、と言ってしまえばそれまでなんだが・・・まぁ、ここでは一旦置いておいて。)

はじめに触れたが、前回の記事で「運命の場所」について書いたばかり。
場所であれ、物事であれ、人であれ、「そういうもの」がこの世界には確かにあるんだろうなと改めて感じた。

しかし、そう考えると次に思うのは
「自分の『運命』って何?
今がまだ『運命の道筋にあるステップ』にすぎないのだとしたら、一体どの時点で運命にたどり着くのだろうか?
その時自分はそうと気づくのだろうか?それともそれは死の瞬間までわからないのだろうか?」
ということ。

まだ最後まで読み終わってないので読了後にはまた違う感想を抱くかもしれないが、今思うことは『運命に従って生きろ』というような言葉で読むと、なんだか哲学的だったり、ロマンチストなんて言われたりすることもあるけれど、
言葉を換えればなんのことはない『自分の気持ちに正直に生きろ』と言っている物語なのだと思う。

どうして自分の気持ちに正直にならないのか
勇気を出せば
やろうとその気にさえなれば
今すぐにでもできることなのに一歩を踏み出せずに時が過ぎ
「はじめから無理な夢だったんだ」と諦めた人生を送るのか

と。

もちろん環境だったり境遇によってどんなにやりたくても一歩を踏み出す土台すらないこともあるだろう。
けれど、だからこそ、そういうものが準備されているのに・恵まれているのにやってみようともしないことは運命に対してとても失礼なことなのかもしれない。
これも作中の言葉だが、 

恵みを無視すると、それが災いになる

ということに繋がってくるように思われた。


こんなことを長々と書いているが、今の自分が恵みを無視せず・自分の気持ちに正直になって・やってみようという心意気で生きているのかというとそうではないので、思うだけ書いてるだけじゃあダメですね(´ω`)
しかし、今の自分の一番大きな問題は「自分が何をやりたいのかわからないから、やってみようとする以前の話」ということだ。
2017.11.11 19:15|未分類
『思い出のマーニー』を何度目かわからない鑑賞をしていてしみじみと考えていた。
フィクションとは言え自分に縁のある土地にそうと知らないままに訪れるってすごく奇跡的・運命的なことだよねと。
そしたら、ふとある言葉を思い出した。

ある場所が自分にとって意味あるものかどうかは人生が教えてくれる

いくつかの場所はね、おそろしい力でもって呼び戻すんだ、人を。
距離なんてものに期待しても仕方ない。それで思い知らされる、帰ってくる運命だったんだって


中山智幸著『暗号のポラリス』より抜粋


『暗号のポラリス』も『思い出のマーニー』も、どちらも物語だから「奇跡的・運命的になるように話をつくってる」と言ってしまえばそこまでなんだけど、そうは言っても私は自分の経験として知ってる。
こういうことは確かにあるっていうことを。
だからこそ、この言葉が心に強く響き残ったのだと思う。

特別美しいとか、
生まれた場所だとか、
好きな場所だとか、
そういことは関係ない。そういうものがなくても何らかの強い結びつきによって自分を引き寄せる場所。
だからこそ逆に、
この場所は好きじゃない、
二度と来たくない、
とわざわざ遠くに引っ越してみたところで、回り回って戻ってきてしまうのが「帰ってくる運命だった場所」なのだろうと思う。

2017.11.10 15:25|未分類
紅葉の写真を撮ろうと植物園へ出かけてきました。
大きなイチョウの木とメタセコイアの並木があって、紅葉の季節になるとまぁ凄いんですよ。それを目当てで出かけたのだけど~・・・あれ、まだ緑色(´ω`)ションボリ
なぜだ・・・毎日あんなに朝晩寒いのにアナタたちはなぜまだ夏仕様なのか。

せっかくなので緑の姿を撮りました。
イチョウの木。大きくて画面に収まらない(^^;
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これが黄色一色に変わったら見事だと思うのよね。また日を改めて見に来れたらいいな。

こちらはメタセコイア。紅葉の気配なし\(^ω^)/
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目当てのものは紅葉には早かったものの、他の植物はチラホラ色づいてました。
0m.jpg
ユリノキ。これぞお手本のようなTHE・黄葉だわ(*´∀`*)
朝日の逆光に葉が透かされてとても綺麗でした。

IMG_4553m.jpg
ヌマスギの湿地。
カメラのグラフィック調モードとはすばらしく色を盛ってくれることを知る。綺麗な画像ですね←マテ

こちらは紅葉ではありませんが、おまけ画像・ヌマスギの呼吸根。
IMG_4583m.jpg
私はこの根が林立してる景色が好きなのですよ(´∀`)
静けさをより引き立ててくれる景色というか、何か物語を秘めていそうな眺めだと感じるんですよね。
2017.11.07 19:34|未分類
自分が好きな本には、作者が違うのに同じような内容が似た言葉で書かれてることが多い。
「だからこそ、その本を好きだと感じた」ってことなのだろうね。

今回は、『赤毛のアンシリーズ・アンの愛情』と『君たちはどう生きるか』の中に見つけた。

神がお与えになる悲しみには慰めと力が伴ってくるけれど、あたしたちが愚かな行為や邪悪な行動から、われとわが身の上に招いた悲しみはそれよりもはるかに耐えがたい
―『アンの愛情』より

お父さんがなくなった時にも、コペル君は寂しくって、悲しくって、よく泣きましたが、でもあの時には、自分についての悔恨に責められることはありませんでした。悲しみに身をまかせていれば、まだすくわれました。
―『君たちはどう生きるか』


作者のジャンルも国も宗教も違うのに、こうも同じことが書かれているというのは・・・やっぱりこれが真理なんだろうなぁと思わせるものがある。